映画版グリーンホーネット

ブルース・リー

出世作

日本人には【グリーン・ホーネット】はブルース・リーの出世作としてよく知られていますが、アメリカでは【グリーン・ホーネット】そのもののコアなファンもたくさんいます。そしてアメリカ人に「有名な日本人は?!」と質問すると「ブルース・リー」と解答する人が多いのですが、ブルース・リーがグリーン・ホーネットで日本人役のカトーを演じたので未だに『ブルース・リーは日本人』だと勘違いしている人が多いのです。それほど、アメリカ人はこのグリーン・ホーネットを観て育ったんでしょうね。

ブルース・リー

今でも熱烈なブルース・リーファンがたくさんいる、ブルース・リー(李 小龍、Bruce Lee、リー・シャオロン、レイ・シウロン)は、截拳道(ジークンドー:Jeet Kune DO)を創始截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られる。したマーシャルアーティストとしても知られています。

生い立ち

ブルース・リーの父親は中国系で、広東演劇の役者の李海泉です。母親はドイツ・中国人のハーフのグレイス。家族を連れて長期アメリカ巡業中の、辰年の1940年(昭和15年)11月27日、辰の刻(午前8時)にサンフランシスコのチャイナタウンの病院で生まれました。5人兄弟の次男として誕生しました。映画には芸名の李小龍で出演しています。生後3ヶ月あまりでサンフランシスコで製作された中国映画『金門女』(中国)に出演しました。それから後、イギリスの植民地にあった香港に帰国しました。1941年(昭和16年)12月から日本とイギリスが開戦しました。日本軍が香港を占領下においたこともあり、映画の製作が止まってしまったために出演作はありませんが、第二次世界大戦が終了した後、映画製作が再開された8歳頃から子役として数多くの映画に出演していきました。ブルース・リーが小さい頃から、中国武術の一派の詠春拳(えいしゅんけん:少林武術が源流)の葉問(イップ・マン)の指導で中国武術を身につけていきます。ブルース・リーが少年の頃、道場にはバスで通っていました。そしてバス停で他の生徒に「今日も休みだ」と嘘をついて他の生徒を帰らせて、葉問の個人レッスンを受けたという逸話があります。

また上海精武体育会香港分会にて北派少林拳の邵漢生に指導を受けて、節拳などを学びました。

渡米

香港では「俳優の不良少年」として悪名高くなっていました。そして、何不自由なく育ったブルース・リーの将来を心配した父親は香港から離して、渡米を命じました。ブルース・リーはサンフランシスコで生まれたので、出生届をアメリカに提出していたのでアメリカ国籍があったというこも理由にあります。

そして18歳のブルース・リーは、所持金わずか100ドルだけで単身渡米して、シアトルに移り住みました。新聞配達のアルバイトをしながら、職業訓練学校のシアトル・セントラル・カレッジに通って高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学します。

勉学に励むかたわらで、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始めます。そして高校では哲学の講師もしていました。その頃、同じワシントン大学の医学生で、道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚します。それから後に大学を中退して、道場経営に専念します。截拳道(ジークンドー:Jeet Kune Do/JKD)を創始しました。

武道家からアクションスターへ

1966年(昭和41年)に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まります。そしてTVシリーズ【グリーン・ホーネット】のオーディションを受けて見事合格。準主役に抜擢されることになりました。正義のヒーロー【グリーン・ホーネット】の助手兼運転手として、マスクを目の周辺だけを隠した日系アメリカ人のカトー役を演じて、派手なアクションで一気に人気者へと駆け上がっていきました。これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客にした武術の個人指導をするようになります。そしてさらに、TVや映画などのゲスト出演を重ねていきました。【グリーン・ホーネット】の後に、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画して、ブルース・リー自ら主演を演じる事を願いましたが、東洋人ということを理由に主演を演じることは叶いませんでした。

1970年(昭和45年)に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立して、レイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をします。翌1971年(昭和46年)に、成人して後となる初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開されます。この映画は、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになり、ブルース・リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出ることになりました。第2作目の主演映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年:昭和47年)では主演と武術指導を担当して、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年:昭和47年)では、ブルース・リーは自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司。ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立して、製作・監督・脚本・主演の四役を担うことになりました。この3作『ドランゴン危機一髪』『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』によって、ブルース・リーは香港で不動のトップスターの地位を築くことになり、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社になりました。

1972年(昭和47年)秋から、ブルース・リーがメガホンを撮る2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートします。ところが、ハリウッドのワーナー・ブラザーズとコンコルド・プロダクションとの合作映画の企画が持ち上がったことで、『死亡遊戯』の製作は中断することになりました。1973年(昭和48年)1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督)の撮影が始りました。かつて、『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったこともあったので、この映画にかけるブルース・リーの意気込みは並々ならぬものがありました。それは、ブルース・リーがエキストラへの武術指導に始まって、脚本や撮影にも詳細な意見を出すことになりました。

死去

1973年(昭和48年)7月20日に、ブルース・リーは『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴えます。そして鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になりましたが、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼びます。ブルース・リーは、そのままクィーン・エリザベス病院へと搬送されたが、まもなく死亡が確認され、32歳で亡くなりました。

葬儀は香港とシアトルで行われました。香港では数万人のファンが葬儀に押し寄せて、シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列しました。ブルース・リーの遺体はシアトルのダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬されました。ブルース・リーの死後、彼が待望していた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに世界各地で公開されて、ヒットしました。しかし、ブルース・リー地元の香港では、前作『ドラゴンへの道』の興行収入を大きく下回りました。

『燃えよドラゴン』でアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時には、すでにブルース・リーは亡くなっていました。そしてブルース・リーの死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給されました。