映画版グリーンホーネット

葉問派詠春拳

詠春拳 その2

詠春拳王

対外的に詠春拳を伝授するようになったのは、紅船戯班の黄華寶・梁二娣から四川梅花拳、蛇形洪拳、古伝の永春拳など各種南派少林拳を授かった「詠春拳王」と呼ばれた佛山の武術家、梁贊(1826~1901)からです。またこの拳法が古伝の永春拳から言偏の付いた「詠春拳」と呼ばれるようになったのも、小念頭、尋橋、標指の三套路に制定したのも梁贊だったと言われています。梁贊は広東省佛山の筷子街で「贊生堂」という名の漢方薬店と診療所を生業としていました。佛山の人々からは「佛山贊先生」と親しまれていました。しかし、梁贊は生涯、詠春拳の武館を構えることはなく、詠春拳を伝えたのは自分の息子と僅かの弟子だけでした。

職業武術家の陳華順登場

梁贊のわずかな弟子の中に、陳華順(1849~1913)がいました。彼は師匠の梁贊の漢方店「贊生堂」の向かいで両替商を営んでいました。そのため、別名を「找錢華」と呼ばれていましたが、向いという近所の縁で詠春拳を学ぶことになりました。

陳華順は身長も高くて、体格も大きく腕力自慢の人物であったといわれています。陳華順は39歳の時(1888年)に梁贊の門下生となり、13年の修業期間を経て詠春拳の全伝を継承すると、両替商を営んでいたのをやめて、1901年(明治34年)には「杏濟堂」の名称で武館を開設します。そして詠春拳を教授することを生業とするようになりました。歴史的に武館を構えて詠春拳を教授する職業武術家を生業としたのは、この陳華順が初めてです。これ以後、詠春拳は多くの弟子を輩出するようになりました。陳華順の弟子の中でも、雷汝済は後の佛山派の祖となり、葉問は香港に渡って、葉問派の一代宗師となりました。

葉問が香港に行くまで

葉問(1893~1972)は本名を葉継問と言って、広東省南海人です。葉一族は佛山では桑畑や綿花畑、製糸工場などを経営していて、裕福な名家の次男として誕生しました。兄と姉が一人ずつ、そして妹が一人の6人家族でした。詠春拳では陳華順の最晩年の弟子にあたり、葉問入門当時(1904年:明治37年)師匠の陳華順は54歳で、葉問11歳でした。

葉問は直接武館には通わずに、葉家の祖師堂にわざわざ陳華順を呼んで、月額・銀8両という非常に高額な月謝を支払って個人教授で教わっていたといいます。入門して2年ほど経って、不幸にも陳華順は脳卒中を患ったため、指導することができなくなってしまいました。当然、葉問が僅か2年で詠春拳の全傳を継承しているはずもないので、陳華順の「葉問が最後まで詠春拳を修行できるように」と兄弟子達へ進言したことで葉問の修行は続けられることになりました。陳華順の代わりに葉問の面倒を見たのは葉問にとって兄弟子にあたる呉仲素です。既に佛山の線香街で詠春拳の武館を開いていたため数年間、葉問の面倒を見る形となりました。この時に呉仲素の計らいで、広州派詠春拳伝承者の阮奇山とも交流しながら拳技を磨いていきました。

1909年(明治42年)葉問が16歳の時に、香港への留学を果たします。香港留学の間に、詠春拳の練習は中断するかと思われましたが、偶然にも、梁贊の実子で、師叔にあたる梁壁と翌年香港で出会います。葉問は好運にも、香港での留学期間も詠春拳を4年ほど練習する機会を得ることができました。1918年(大正7年)、佛山に戻った葉問は警察官となりました。また、佛山に戻ってから葉問は張永成と結婚して2男1女をもうけています。

1937年(昭和12年)には葉家の全財産は日本軍に接収されて、葉家の邸宅は日本軍の司令部となりました。裕福な名家の次男でうまれた葉問は45歳でいきなり無一文になってしまいます。ちなみに佛山は翌年に陥落して、日本軍に占領されました。1941年(葉問48歳の時)、友人の周雨耕・周清泉父子の頼みで、周光輝、郭富、倫佳、招允たちに葉問自身が初めて詠春拳を教授しました。戦後、復権を果たした葉問は国民党で警察局刑偵隊隊長、升督察長、廣州市衛戌司令部南區巡邏隊上校隊長などを歴任していました。1949年(昭和24年)国共内戦の激化で、共産党の政権掌握に至って、國民党の要職にあった葉問は身の危険を感じたので、妻子を残したまま、身分証明書の名前も「葉溢」に変えて、マカオ経由で香港へ逃亡(亡命)しました。

葉問香港へ亡命

葉問の香港での生活はたちまち困窮を極めることになりました。葉問が生き延びるために残された道は、弟子を取って詠春拳を教える事で生活していく事しか残されていませんでした。葉問はその目的達成のためにあらゆる縁を頼って、友人・知人を尋ね歩いていきました。香港留学時代からの友人の李民にも相談を持ちかけに行きました。李民は葉問の頼みを聞き入れて、一肌脱ぐ事になりました。

1950年(昭和25年)5月に、李民の計らいで「港九飯店職工總會」で詠春班の最初の練習が始まることになりました。参加者は職工總會理事長の梁相、駱耀、陳球、陳計たち16名でのスタートになりました。7月には次の新しいクラスが開始されましたが、30名を超す人気で詠春拳の香港での名声は一気に広まります。しかし、この頃の参加者には脱落者が多くて、最終的に残ったのは結局、詠春四大天王の一人で後に「標指王」とよばれた梁相と後に「尋橋王」と呼ばれた駱耀の二人だけでした。

葉問派詠春拳の発展

脱落者の続出に葉問は、香港留学時代に培った現代科学の明快で合理的な考え方に基づいた教授方法を採用することにしました。中國武術が旧態依然の伝統的な指導方法が常識だった時代に、科学的な視点で合理的に詠春拳を指導することは、想定外の出来事でもありました。それは気 、陰陽 、五行 、八卦 など実証する事の困難な形而上学に終始する東洋哲学から脱却して、葉問の弟子達は明快で理解が容易な最短コースで詠春拳を修行する事が出来る様になりました。

1961年(昭和36年)、駱耀師が深水埗基隆街で独立します。また1963年(昭和38年)、詠春四大天王の一人で「講手王」と呼ばれて畏れられていた黄淳樑師(1935-1997)が28歳の折りに遂に独立して、弟子をとって生活するようになりました。武館の名も「黄淳樑詠春國術會」として詠春拳を更に普及させていきました。この事は葉問が直弟子(第1世代)だけでなく、孫弟子(第2世代)にも慕われる存在になった事を意味しています。葉問派詠春拳は、香港でも一大門派へと発展したのでした。

晩年の葉問

1964年(昭和39年)、弟子達は葉問の身体のことを考えて、自らの武館は閉鎖して休養にあてるよう進言します。それに応えるかたちで葉問は九龍・旺角通菜街の一室を終の棲家と決めて、詠春拳は個人教授を受け付けるのみにしました。

葉問の晩年は詠春四大天王の一人で「小念頭王」と呼ばれた徐尚田師が面倒を見ていました。1968年(昭和43年)葉問が75歳の時には、詠春門の悲願でもあった「詠春聯誼會(後の詠春體育會)」が遂に設立され、葉問はずいぶんこの事を喜んだといいます。詠春體育會は当初武館というよりは、詠春拳の指導者が集まる会議室として開館されたました。練習場として初めて詠春體育會を使用したのは黄淳樑師で、1997年(平成9年)に黄淳樑師が亡くなるまで練習場としては詠春體育會を独占使用していました。現在では各派が時間割を割いて共同で使用しています。

1972年(昭和47年)12月1日に、多くの弟子達に見送られ、九龍・旺角通菜街の自宅で逝去しました。享年79歳。ちなみにブルース・リーは葉問の後を追うように翌年の1973年7月20日に僅か32歳の若さで亡くなりました。

日本での詠春拳事情

日本で詠春拳といえば、それはおおむね葉問派詠春拳のことをいいます。

1970年代のブルース・リーの人気によって、日本でも詠春拳を学びたいと考える人が沢山でてきました。しかし葉問の直弟子全盛の時代に香港まで渡って、または香港人に就いて最終段階である標指まで学ぶことにできたのはごく小数に限られました。その理由の一つには「日本人に教えてはならない」という葉問の遺言の影響があります。

1980年代〜1990年代に日本人でも学べる香港の武館は、黄淳樑師の武館だけだったとも言われていて、日本では黄淳樑派詠春拳と銭彦氏(盧文錦師伝)、パスコ・デイヴィッド氏以外の教室ではこの遺言の影響は現在でも残っています。この影響があって、まだまだ普及してるとは言えません。この事が日本と各国との人気・事情の差となっています。

1980年代より台湾出身の錢彦氏、川村祐三氏たちが中国武術専門誌や書籍、主宰する団体を通して詠春拳を日本に紹介してきましたが、近年は2011年にドニー・イェン主演の映画『イップ・マン 序章』『イップ・マン 葉問』が、2013年にウォン・カーウァイ監督の『グランド・マスター』が日本公開された影響もあって徐々に詠春拳の知名度は浸透しつつなってきています。日本国内で葉問派詠春拳の実像にアクセスできる機会は今でも少ないのが実情で、正しい全伝を学べる機会はほぼ皆無という状況になっています。とりわけ香港の梁贊直系主流を自負する団体に関しては、黄淳樑派詠春拳と銭彦氏、パスコ・デイヴィッド氏の教室以外は葉問の遺言がそのまま保たれている状況になっています。現在では、梁挺派詠春拳を指導する団体や、新たなる護身術EBMAS等によってWing TsunやWing Tzunは国内でも普及しつつありますが、正統詠春拳はまだまだ普及しているとは言えません。

葉問派詠春拳

最も有名なスタイルに葉問派詠春拳ですが、その極端にコンパクトで直截性を強調した動作は、古伝の詠春拳を意図的に整理して、近代化したものになっていて、詠春拳の全体像から見れば独特なものになっています。これが詠春拳の代表的スタイルというわけではありません。更に葉問派詠春拳は實用詠春拳と伝統詠春拳に分類されています。

葉問系詠春拳は中国伝統武術についてまわる陰陽、五行、八卦などの東洋哲学から脱却して、練習者に科学的論理性と徹底した理解を求める教授スタイルで知られています。合理的・実戦的であると言われていますが、かといって術理が欧米化して堕落した訳ではありません。また他の中国武術のような内功、外功といった概念を持っていないので、呼吸法も自然呼吸になっています。道教的影響よりも、仏教的な色彩が色濃いと言えます。武術一般の内功にあたると思われる「内力」という概念がありますが、そのための特別な養成法があるわけでもなく、正しく練習をしていけば長い間に自然と自覚されていくものとされています。ただし初級套路の小念頭に内功を養う効果があると指導する指導者もいます。実際、小念頭には各種の意念を用いることや、集中力、自然呼吸を重視する点において立禅と共通する要求が多くあります。接触感覚を重視することで、目に頼らずに戦うという考えになっっているので、周辺の比較的スタイルの近い門派には存在する視力の訓練も存在していません。身体に負荷をかけたり、身体を打ち付けて鍛えるような外功的な訓練も行わないので、力みを極端に嫌って、南方の拳法にある剛強なイメージからは外れた訓練体系であることで知られています。この「無駄なことをしない」という思想は、ブルース・リーの【ジークンドー】にも受け継がれています。

この簡単さゆえに、戦闘理論に関しては非常に厳密な理解と体現を要求されることになっているので、実際には簡単とは言っても、非常に習得・体現の難しい武術になっています。そのため対人練習に非常に多くの時間を割いて、内部感覚を養成していきます。世界的に広まったことによって、他の格闘技術などの影響を受けて改変・変容して、新たな一派が誕生したりするという傾向にもなっています。また、内部感覚さえ身につけば自由に改変できるという考えから、同じ葉問派とはいいながら葉問派詠春拳の本来持っていた徹底したシンプルさと実用を重んじるという特徴は、時代と共に軽んじられている傾向になっているので残念な事ともいるでしょう。そのために、指導者や武館によっては、同じ香港の伝統的詠春拳と言っても指導内容には既に想像以上に大きな違いがあることが知られるようになってきています。更に残念な事に最近では、新たなる護身術EBMAS(欧米を中心に普及している総合格闘技)やクラブ・マガ(イスラエルで考案された護身術)も誕生してしまっています。現在でも世界的な普及・発展を続けていますが、これは実はブルース・リーの影響ではなく、香港返還によって人材の海外流出によって広まっていきました。現在では詠春拳のイメージと言えば「ブルース・リー=詠春拳」というイメージではなく、「ドニー・イェンの『イップ・マン 序章』『イップ・マン 葉問』=詠春拳」というイメージに変わりつつなっています。