映画版グリーンホーネット

名言集&詠春拳

「Don't Think. Feel!」

『燃えよドラゴン』の映画の冒頭で、「Don't Think. Feel!」(考えるな、感じろ!)と語る台詞があります。これはブルース・リーを代表する名言です。哲学を学んだブルース・リーは非常に奥の深い数々の名言を残しています。そして彼と彼の息子のブランドン・ブルース・リーのお墓はシアトル市内にありますが、ふたつのお墓が並んでいます。

そして墓石には、截拳道理念(Jeet Kune Do concept)の「以無限為有限 以無法為有法」と「YOUR INSPIRATION CONTINUES TO GUIDE US TOWARD OUR PERSONAL LIBERATION」が刻まれています。

名言集

Don’t think, feel 考えるな、感じろ

状況など気にするな。機会は作り出せ。

誰かからの助けを期待するのではなく「自助が肝心だ」と思わなくてはならない。

心を空にしろ

私の武器はこの肉体だ。

皆が皆、勝つ方法を学びたがる。しかし、決して負ける方法は学ぼうとしない。

生は絶えず関係を持つことである。人は関係の中で生き関係の中で成長する。

生き物である人間、また創造する人間はできあがった型やシステムよりも重要である。

誰が正しくて誰が間違っている、誰が誰より優れているなどと考えるな。賛成も反対もするな。

ある人物のことを知りたければ、他の誰かと一緒に行動している時の様子を観察すればよい。

お前は考えたように、変わる。

人から感じろ、己を知るとはそういう事だ。

勝つか負けるか、戦いの結果を予測することは大いなる間違いだ。自然に任せていれば、ここぞという時にひらめく。

正しいか間違えているかなど、分けるな。

行動に裏打ちされた現実的な夢追い人であれ。

モノが入るように、あなたのコップに空にしておこう。

常に自分自身であれ。自分を表現せよ。自分の中に信念を持て。

状況など気にするな、機会は作り出せ。

限界などない・・ ただ、うまくいかない時があるだけだ。だが、そこに留まっていてはいけない。それを超えて行くのだ。

俺はお前のために生きているのではない。お前も俺のために生きているのではない。

増やすな、捨てろ。

成功とは、真心を込めた真摯な態度で何かをすることである

知るだけでは不十分だ、実際に応用しなければならない。 意志があるだけでは不十分だ、実行しなければならない。

悲観的な考え方は、成功を遠ざける。楽観的な考え方は、成功に導く信条である

この世で最大の勝利は自分自身に勝つことである。

人間はいつも成長している。人間はパターン化された思考や行動によって行動を制限されると成長をやめるものだ。

何かについて考えすぎると、それを成し遂げることは到底不可能である。

目立とうとするのは、栄光を勘違いした愚か者の考えることだ。

ブランドン・ブルース・リー

父親のブルース・リーよりも若く不審な死を遂げた息子のブランドン・ブルース・リーですが、カリフォルニア州オークランド出身で、1965年(昭和40年)2月1日にブルース・リーの長男として生まれました。子どもの頃から父親のブルース・リーから直接マーシャル・アーツの指南を受けて育ちました。8歳まで香港で過ごしていましたが、父親の死後にロサンゼルスへ移住しました。エマーソン大学に在学中に演技への興味を覚えて、俳優を志しました。

1985年(昭和60年)TV映画『ブランドン・リーのカンフー・ファイター』でデビューします。1987年(昭和62年)に香港映画『ファイアー・ドラゴン』で初主演を飾り、ハリウッドでデビューしました。

不審な死

1993年(平成5年)に映画『クロウ/飛翔伝説』の収録中に起こりました。銃撃されるシーンで使用する拳銃には弾頭が抜かれた撮影用の空砲(火薬とプライマーのみ)が入っているはずでしたが、なぜか弾頭が銃身の中に仕込まれていました。

空砲の火薬が爆発した際に、銃身内の弾頭が発射されてしまい、それが腹部に当たり事故死しました。父親のブルース・リーより若い28歳(1993年3月31日没)で亡くなりました。映画自体はほとんどの撮影が済んでいたこともあり、残りの部分は未使用映像やCGを使って補填されました。

出演映画

  • 1987年(昭和62年)・・・「ファイアー・ドラゴン」 龍在江湖 (英語タイトル:LEGACY OF RAGE FIRE DRAGON)
  • 1990年(平成2年)・・・「バトルドラゴン」 (英語タイトル:LASER MISSION)
  • 1991年(平成3年)・・・「リトルトウキョー殺人課」(英語タイトル: SHOWDOWN IN LITTLE TOKYO)
  • 1992年(平成4年)・・・「ラピッド・ファイアー」(英語タイトル: RAPID FIRE)
  • 1994年(平成6年)・・・「クロウ/飛翔伝説」(英語タイトル: THE CROW)

詠春拳(えいしゅうけん)その1

ブルース・リーが唯一門下に入っていたのは詠春拳です。もちろん詠春拳の黒帯を持っていました。ブルース・リーは詠春拳だけではなく、もっと速くもっと強くを求めて自身で截拳道を始めました。詠春拳を極めていたからこそ『足りないもの』を感じていたのかもしれません。

詠春拳は手技に特徴があります。拳技は地味で見栄はしませんが、香港映画や、最近ではハリウッド映画などでもアクションの中で詠春拳の手技が見られることが多くありますが、根本的に飛んだり跳ねたりということを一切しないので、実用を重視した地味な拳法体系です。

一般的には短橋(腕を短く使い)狭馬(歩幅が狭い)の拳法とされていて、200年から300年の歴史があると考えられている。広東省を中心に伝承されていました。拳術を中心技術として刀術と棍術とを含んでいますが、伝承された型を分析すると刀術を基礎として、それを徒手拳術に応用した部分も多く見受けられます。練習スタイルには人を象った木の人形(木人樁、もくじんとう)を使用することでもよく知られています。現在のほとんどの詠春拳の伝承には、小念頭、尋橋、標指、と呼ばれる(またはそれに相当する)3つの套路(空手でいう形)と、木人樁法、八斬刀や奪命雙刀と呼ばれる刀術、そして六點半棍、行者棒などと呼ばれる棍術が含まれるていますが、伝承によってはそれ以外の拳套や武器術も伝わっているので、その全てが短橋狭馬の技術というわけでもありません。

詠春拳は現在までに多くの分派を生じています。他の南派少林拳発生との関連もあるので、どこからどこまでが詠春拳であるとは定義できません。ただ、もともと「永春拳」と称していたものから「言」偏のついた「詠春拳」と称するようになったのは、詠春拳王と呼ばれた広東省・佛山の武術家及び湯液家、梁贊より以降に限っています。この系統での套路(形)は小念頭、尋橋、標指の三套路のみになっています。これは梁贊がこの三つにまとめたからだと考えられています。(ただし後から他門派の技法や形を取り入れている混合的な流儀もあります。また虚偽を教えていることも普通にあるのでかなり紛らわしくなっています)ブルース・リーによって葉問派詠春拳が世界的に有名になってからは、世界各地に伝えられました。そして最も多く練習される中国武術の一つになりましたが、ブルース・リー以前にも華僑によって東南アジア方面にも伝承されていて、それぞれに独自のスタイルを形成しています。

詠春拳の歴史

詠春拳の発祥には清朝に対するレジスタンスや、粤劇(広東オペラ)の発祥が関わっていると言われています。創始者とみなされている者としては、至善禅師、五枚尼姑、苗顕、厳詠春、方永春、張五(攤手五)などの名前が残っています。。それ以降の伝承者の名称には、粤劇における役の名前も多く見受けられるので、古伝の永春拳と粤劇はその創成期において歴史を共有しているように思えます。至善禅師、五枚尼姑、苗顕は少林五老のうちの三人です。これは古伝の永春拳が洪家拳と関連が深く、紅船戯班内では散逸した南派少林拳の伝承を受け継いでいるため、技術交流が頻繁に行われていたようです。ちなみに詠春拳団体や道場のマークに梅の花が用いられるのは、梅の花の花びらの数が、この"少林五老"の数と同じ五から来ています。

伝説?!

厳詠春の父、厳二はある事件によってタイやミャンマー国境に程近い四川省の大涼山まで逃亡をしました。そしてそこで豆腐を売って生活をしていました。厳二は地元の少数民族から四川梅花拳(五枚尼姑伝の拳法)などの南派少林拳を学びます。厳詠春はそれらを父から学んで、さらに改良したといわれています。また古伝の永春拳の創始者の一人と伝わる五枚(五梅)尼姑が、四川省の大涼山に隠れて、そこで詠春拳を作ったという伝承もあります。厳詠春(もしくは方永春・いずれも女性)が鶴と蛇(別説には、鶴と狐)の闘争を元に創案にしたとも言われています。詠春という名前については、厳詠春から取ったと言われていますが、南少林寺では至善禅師のおられた「永春殿」で練習されていたからという説もあります。厳詠春は当時の武侠小説に登場する主人公の名前であるとも言われています。いずれにせよ、南少林寺は長い間架空のものとされてきましたが、近年では実在したとする説もあるので将来の研究に注目してきたいです。

さらに伝承は続く

佛山の茶葉商人で、後に厳詠春の夫となる梁博儔がそれを学びます。そして更に古伝の永春拳は梁博儔の唯一の弟子の広東省佛山の商人、梁蘭桂へと受け継がれていきました。やがて佛山から粤劇の紅船戯班が旅巡業にやって来たときに、粤劇「紅船戯班」の役者だった黄華寶と船員の梁二娣が梁蘭桂から古伝の永春拳を教わることになり、激しい修行の結果、黄華寶と梁二娣は古伝の永春拳を継承しました。梁蘭桂は粤劇をこよなく愛していて、これまでに粤劇の役者達と親交があったことから、その縁で師弟関係ができたと考えられています。これ以後、古伝の永春拳は、広東省周辺の民間芸能である粤劇の興行一座だった「紅船戯班」の内部で伝承されてきたことは間違いないように思えます。その当時、職業として古伝の永春拳を対外的に教授する者も稀だったため、歴史上のほとんどの期間では、古伝の永春拳は門外不出の様相になっていて、武館を開設する慣習もありませんでした。